2019年02月18日

書くことと話すこと

こちらのブログはまだまだ歴史が浅いのですが、アメブロの方は今年4月で丸3年を迎えます。もともと書くことは好きですが、ことにブログは手軽に書けるツールであると感じています。

心理療法のクライエントさんの中にも、書くタイプの人がいます。もともと日記的なものをつけている方や、セッションとセッションの間に気がついたこと、思ったことなどをメモっておく方もいます。気持ちや考えは頭の中にあるだけではモヤモヤしがちですが、紙(や画面)の上に文字として並べると、言葉としてハッキリします。

過去のこころの傷やトラウマなどを、書くことで癒やす人もいます。多くの文学者など、そうなのだと思いますが、これはなかなかに大変な作業のようです。書くことは本質的に孤独であるのに対し、癒やしのためには角度を変えて見ていくなど、変化を起こしていく必要があるからです。

実際、治療困難なタイプのPTSDの場合、その人が見る悪夢は変わらず、繰り返されると言います。それが本人にとって苦痛なのにも関わらず繰り返されるというのは、悲惨です。人間は変わらないようでいて刻々と変わっていくので、悪夢であれ「変わらない」というのは驚くべきことです。PTSDでなくても、人は変わらない問題については同じように話す傾向があります。その問題に何度もアプローチして言葉(すなわち関わり方)を変えることで、変化も起こってきます。

「書く」行為に対し、心理療法は「話す」ことです。話すことは書くことに比べ自由度が高く、文として形を成している必要もありません。話すことの方が柔軟性も即興性も高いのですが、その分なにが出てくるか分からず、不安に思う場合もあるようです。

心理療法で話すことはまた対話であり、セラピストは基本聞き役ですが、ずっと黙っているわけではありません。コメントをしたり、分からないところは質問したりします。あたかも一人で話しているようだった人は、セラピストの側の視点を入れられるようになることで、同じ空間に「他者」がいることを知り、他者と協働できるようになっていきます。自分や自分の体験について話す能力をそれまであまり形成してこなかった人は、共感的に聞くセラピストの存在によって、話す力をだんだんと養っていくことになります。

書くことはPCであればタイプ、紙であればペンを使わないわけではないですが、話すことの方がより肉体的であるように思います。書いたものも読めないわけではありませんが、話すと「声」として口から出たものを自分の耳で「言われたこと」として聞く、という順番になります。声は肉体的なものですし、声を出すには息をまず吸う必要がありますし、声を出しているときは息を吐いています。声がかすれてしまったり、感情を反映して高ぶったりなどもあります。話すことの方が、書くことよりはるかに容易に感情を映し出しているのではないでしょうか。

書き言葉(読み書き、リテラシー)はまた主に学校で習うもので、正規の教育を受けていなければ身につきにくいと言われています。そういう意味ですでに「よそゆき」の言葉ですが、話し言葉の方は始まりのことを言えば赤ちゃんのとき「あー」とか「ばー」とか行っていたことの延長であり、より幼い自分や家族との関係ともダイレクトにつながっていると言うこともできるでしょう。

誰でもある程度経験があることだと思いますが、なにか悩んでいたり、アイデアがハッキリしないとき人に話すと形を取りやすい、ということもあります。カウンセリング・心理療法はまさにこの機能を使ったもの、と言うこともできます。特に批判しない、自由に話していいという原則がありますから、ますます自由に考えをまとめていくことがしやすいと言えるでしょう。このように「話すこと」、「対話すること」のアドバンテージを最大現活用して行われるのが心理療法のセッションなのです。

参考文献:伊藤崇『子どもの発達とことば』(2018年、ひつじ書房)