2019年07月29日

子どもの「こころ」を尊重する

子どもがごく小さい頃、つまり赤ちゃんの頃から子どものこころを尊重することは、その子が豊かなこころを持ったり精神生活を送っていったりする上で役に立ちます。理論的には、分離・個体化理論を唱えたマーガレット・マーラーが言った通り、子どものこころは最初数ヶ月間くらいは母親と未分化で「共生」状態にあるのかもしれません。しかしそれでも、赤ちゃんは自発的に笑ったり(「新生児微笑」、これも反射であると言われていますが)、指さしたりぐずったり泣いたりします。あるいは足をばたばたとさせます。そうしたことはすべて赤ちゃんのこころの動きであると言えます。

逆に、子どもを自分の所有物であるかように考えたり、あるいは自分の延長、自分の一部のようにいつまでも思っていたりすると、子どものこころや行動が自分の想定した通りの範囲を超えたときに、それを察知することもできなくなってしまうばかりか、動転してしまうでしょう。ある年頃まではそうして自分の「思った通り」に動いてくれる「いい子」である子どもがいるかもしれません。しかし、子どもが別個の人間である以上、そんな状態が長続きするはずがないのです。

小さい頃からの、子どものこころの存在やその独自の動きに鈍感であったような親は、子どもがあるところから自分の言うことを聞かなくなったり、反抗・反発したり、してはならないと言ってきたようなことをしたりすることに驚き、うろたえます。ある親たちは、子どもが「問題行動」(不登校、引きこもり、非行など)を起こすまでそれに気づかないということもあるようです。それまでにも子どもからの何らかのサインやメッセージはあったのではないでしょうか? それともそれを子どもが発することができないようなコミュニケーションを築き上げてしまったのでしょうか。

「問題」が起こると今度は、それが何年もかかってできてきたものの結果であるとしても、問題を「即時」解決してほしいのです。自分が困るから、というのもあるかもしれませんが、子どもはそれ以前から何年も「困った」状況を生きてきたのではないかと思ってしまいます。

ある意味、不登校や引きこもりはそれ自体では問題ではないと言えます。親の「義務」としては、義務教育だけは終えさせなければいけない、というのがあるとしても、学校へ行ってその結果通じるようなコースだけが、人生のすべてではないとは言えます。しかし、学童期~思春期の子どものメンタルヘルスというものを考えるとき、「学校」というスタンダードから外れていってしまうことは、やはり黄信号ではあるのだと思います。不登校・引きこもり自体というよりは、その背後になんらかのメンタルヘルスの問題があること(発達障害やうつ、社会性やコミュニケーションの問題など)、または不登校・引きこもりなどのライフスタイルをきっかけとして、そうした方向(気分障害や統合失調症、人格障害など)へ向かっていってしまうとしたら、それは問題のある方向性だと言わなければなりません。

子どもは学校や、また同じ年頃のほかの子どもたちから多くを学びます。それは親がどんなに遊び相手になったり学ぶ手助けをしたりしても、代替し得ないことであると言えるでしょう。子どもは、親から最初の人間関係やその他多くのことを学びますが、ある年頃(思春期頃)から先は、むしろ同輩からいろいろなことを学ぶからです。それは親と子どもとの世代が違う以上、宿命や必然であるとも言えます。

また、学校側の話をすればこうした発達の流れの中での「学校」という枠組みの一人一人にとっての重要さを認識した上で、何らかの課題や難しさがあっても通ってこられるような体制を整えることが今後ますます必須となっていくでしょう。日本は、全体として親や学校(先生)側が子どもを「仕切る」傾向がまだまだ強いのですが、日本が批准している「子どもの権利条約」に従えば、子どもたちはもっと主体性や自治権を取り戻すべきなのです。最低限、子どもの意向を聞くようにすること、選択肢を与えてやることなどによって、子どもを過剰に支配してしまう危険を回避することができるのではないでしょうか。

親にしろ先生にしろ、自分がどう育ってきたか、どう育てられてきたかと子どもをどう扱うかには密接な関係があると言えます。やはり、自分の育ちをあらためて振り返ることが、自分と子どもとの間のギクシャクした関係を改善するために必要となるのではないでしょうか。