2019年08月14日

「引きこもり」に違和感を感じた理由

「引きこもり」は現代日本でとても問題視されている現象です。最近では40代以上など、いわゆる「学生」の年齢でなくても引きこもっている人が多数いること、引きこもった子どもと親とともに老齢化していき、困っていることなどがあらたな問題として注目されてきています。

引きこもり自体はささいな問題として始まるのかも知れません。学校に馴染めない、友だちができない、学習についていけないなどです。その時点でそうした難しさが周囲からのなんらかの援助などで比較的さっと取り去られていたら、引きこもりにはならなくて済んだのかもしれません。オープンマインドでこれまで出会った例としては、やはり進学して(中から高、小から中など)通学や友だち作りなどの困難に出会ったことが引きこもりのきっかけとなっていました。大学に馴染めず、メンタルヘルスの問題が長期化して今も引きこもってはいないものの、付き添いがいなければ外出できないという大人のクライアントさんもいます。

学校は行かなくてもいいんじゃないか? という意見もあるかもしれません。もちろん、究極学校だけが教育の場ではなく、いわゆるフリースクールのようなものや、日本では認められていませんがホーム・スクーリングのような代替が認められてもいいのだと思います。ただ、児童期から成人期への流れをかんがえたとき、「学校に行けなくなる」というのはやはり大きく、その方向性はネガティブであることが多いのです。

引きこもりがある種の「調整期間」「充電期間」として働き、どこかの時点で勇気を出してまた出てくることができる、徐々に社会復帰できるというのならいいのですが、極端に長期化、または慢性化してしまうと本人にとっても周りにとっても二次的な問題も生じてきてしまうのではないでしょうか。

ところで、タイトルに「引きこもりに違和感があった」と書きました。これは主に、私が臨床心理や精神医学の勉強をまったく日本でしていないまま海外(アメリカ)で始めてしまったせいで、いわば違うルートから日本での臨床に入ってきたためでもあります。ご存じの方もいるかと思いますがアメリカではDSM(精神障害の診断と統計のためのマニュアル)という診断体系が使われており、そこに「引きこもり」はありません。そのため、引きこもりは日本独特の病理、問題であるというように見られてもいるかもしれません。社会、社交から引きこもるの意でsocial withdrawalとか(social) isolation(孤立)といった言葉は使われますが、それは診断ではなく現象や一症状としてです。

では、引きこもりに近いものは何か? と考えると近いところでは広場恐怖症や対人恐怖症・社会恐怖症となるかと思います。「広場恐怖症」というのはパニック障害としばしばいっしょに診断される状態で(単独でもあり得ます)、文字通り「広場」が怖いというよりはトンネル、大きなお店、渋滞、混雑したところなど「脱出が難しい」ような状況で非常な恐怖を覚える(場合によってはパニック発作を起こす)という状態です。実は広場恐怖症の「本体」とも言えるのは広場を横切るようなこと、つまり「つて」や「つきそい」がなくある場所からある場所へ移動するような移行状態についての強い不安だと言えます。「家を出て、学校(職場)に行く」過程もこの移行状態に相当すると思われます。

つまりは、引きこもりと広場恐怖症はいわば「コインの表裏」であって、「引きこもり」には「恐怖」という言葉は入っていないけれども、恐怖や不安は存在しているだろうということです。仮に引きこもり=広場恐怖症とすれば、英語では「不登校」という言葉よりも「学校恐怖症」(school phobia)という言葉の方が使われるだろうということで、なんとなく彼我のネーミング・センスの違いを感じます。強いて言えば英語の方が恐怖の「対象」があることがよりハッキリしているということでしょうか。

引きこもりの背後にあるのは対人不安や社会不安だけではなく、おそらく分離不安的なもの(親離れ子離れの不完全さ)もあるのでしょう。親の視点から言えば引きこもりに悩んでいるものの、どこか子どもが家にいてくれることで安心しているところもあるのではないでしょうか。敢えて冷たく突き放してまで自立させようとはしないわけです。引きこもりは引きこもっている当人だけの「問題」というより、やはり親子関係や家族という単位で考えた方がしっくり来るように思えます。親離れ子離れの問題はシンプルに見えながら、レベルの違いはありますがときにとても重篤な問題を孕んでいることもあるかと思います。