2020年03月12日

心理療法(カウンセリング)は「医療」か「教育」か

昨夜のことです。あるグループに参加しようとしたところ、自分を「医療」か「教育」か、またはその他いくつかの「業種」に分類しなければならず、はたと困ってしまいました。「臨床」心理学は精神医学に近く、病院やクリニックで実習したこともあり、より「医療」な気がします。一方で、学校で実習をしたり、学校カウンセラーとして働いたこともあり、それを聞く限り「教育」であるように思えます。実はこれは、長い論争のようなものでもあると思うのです。

当初、精神医学や精神分析学はヒステリーなどの症状のある人を「診断」し、「治療」する、というアプローチを取ってきました。しかしここには(例外もいっぱいありますが)「治療者」と「患者」という関係性ができがちで、どうしても「患者」の方が立場が弱くなってしまう傾向もありました。また、「診断(名)」というレッテルを貼ることにより、患者がスティグマを経験したり、また治療者側もその見方に縛られてしまうという難点もありました。

医療モデル的には「症状」を治療(軽減するか、消失するように)しようとしますが、心理的問題の場合、単に症状を消そうとすることではうまく行かない・・・相手は全体のバランスで成り立っている「人」であるので、というのが分かってきたのだと思います。また、「医療」が悪いばかりではなく、実際、ずば抜けて優れたセラピストは、身体の病についての教育や理解も十分にある医師(=精神科医)から出てくることが多い、という印象もあります。

他方、アドラーなどは(私はアドラー派ではないのですが)、心理療法をより「教育」として見てきたと言えます。こころの健康など、健康について知らない人は不健康な習慣やアプローチを知らずに取ってしまうことがあります。これについては、「教育」すればなんとかなる、と考えることもできます。たとえば、虐待や体罰が子どもの発達や将来に悪い影響を及ぼすということを知っていれば、なにも考えずそういう行為に及んでしまうというのも、少しは抑制されるのかもしれません。

教育、ということをさらに言えば、学校カウンセリングのように、学生である人(およそ小学生から大学生まで含められるでしょうか)については、「学生としてうまく生きれているか?」ということが焦点になってきます。おおざっぱに言えばそれは学習面と、社会面(対人関係、ある年齢以上では異性関係も含む)に分かれると言えるでしょう。仮に、不登校などであったり、学業の成績が振るわなくても、その後社会で立派に生きていったり、活躍したりする余地もあるわけです。しかし、全体の「傾向として」、学校をドロップアウトしてしまった人は、その後メンタルの問題を抱える可能性も決して低くはないのです。それは、学校→職場といった所属・帰属・居場所の問題や、そこから生じる対人関係や経験の有無などとも、関係があるでしょう。そのため学校カウンセリング(や、その年齢に相当する人を相手にするセラピー~プレイセラピーなど)では、現在の環境に適応できるよう、本人を助けたり、あるいは環境の方の調整を図ります。

これはより「カウンセリング心理学」的であると言えるでしょう。アメリカの心理学のこの分野は「カウンセリング心理学」と「臨床心理学」に便宜上分かれていますが、適応を助ける、「健康モデル」はよりカウンセリング心理学寄りであると言え、一方、「障害」を治療しようとする「医療モデル」はより臨床心理学寄りであると言えるでしょう。ただ、この2つはもはや混在し、カウンセリング心理学だから「軽度の」例を扱うとか、臨床心理学だから「重度の」例を扱うといったように、単純に分けることはできないようです。

それでもあえて便宜上、2つのアプローチの違いを明確にしようとするのであれば、よりカウンセリング心理学的アプローチで言えば、その環境での適応を助け、一方臨床心理学的アプローチでは、環境そのものを変えてしまうような(つまり転地、転校、転職等々)大胆な決断も必要となってくると言えるでしょうか。要はその人がより幸福に、ストレス少なく、適応していけるような「組み合わせ」(人間関係や、仕事や生きがい、居場所など)を見つけ、実現してあげる手伝いをするのが心理療法家の一つの仕事であると言えるかもしれません。