過日、オープンダイアローグについての会合に行ってきました。オープンダイアローグの映画を撮られた、ダニエル・マックラーさんが来日しており、それを知らせてくれた人がいたためです。
10年ほど前、その映画(DVD)の字幕の日本語への翻訳を頼まれてしましたが、そのときはこれがポピュラーになるとは、まったく思っていませんでした。私はダニエルさんとはニューヨークのメンタルヘルスに関する会合で会いましたが、そのとき覚えていてくださったようで、後から連絡をいただき翻訳につながりました。そのほかに当時、『その破れた翼でも』というのと、『癒しの家』というのも(共にDVD)翻訳しましたが、オープンダイアローグ(当時は、『開かれた対話』という題に訳しました)だけが一人歩きするようにして知られるようになった印象があります。
オープンダイアローグはフィンランドでの精神医療の話ですが、『その破れた翼でも』は主にアメリカの精神分析医フリーダ・フロム=ライヒマンとその患者で統合失調症から回復したジョーン・グリーンバーグについての話など、『癒しの家』はスウェーデンの精神病向けプログラムの話でした。
どれもダニエルさんが手がけられた、薬なしで精神病から回復するというテーマのものです。ダニエルさんは元ソーシャルワーカーで心理療法家でしたが、患者の話を聞かず投薬中心の精神科医療に疑問を持ち、薬なしでの精神病からの回復について、より多くの人に届くよう映像を通じて伝えていくことにしたと言います。彼はこれまでに4本のDVDを制作し、特にオープンダイアローグは多くの言語に翻訳されているようです。
オープンダイアローグは、フィンランドの一地方ラップランドの、トルネオという場所での話ですが、そこでははじめての精神症状エピソードを経験している患者さんを中心に、複数のセラピスト(システム的家族療法の訓練を受けたセラピスト)や患者さんの家族が対話をくりかえし、患者さん(や家族)が経験している危機を乗り越えるまで、それをつづけます。そのようにして、長期化する投薬や、入院に至らずに済む、再発することもない、という成果を高い確率で上げてきたものです。
これは考えてみれば納得の行く話で、というのも「患者」となる人が経験している危機(実は家族や、周りの環境の危機でもある)を家族内でうまく扱いきれないために、精神症状となったり、家庭から離れて入院に至るということがあるからです。その危機を乗り越え解消しさえすれば、そうした(個人、家族の)状況はなくなるということで、症状も病気もないのです。(これは、もっと軽い神経症などについても言えるかと思います。心理療法でやっていくことは、そればかりではないですが、ごく簡単に言えばストレスとなる状況を認識し、その対応法や対応力を身につけるということだからです。)
ダニエルさんのDVDを通じてこれは世界に広まりましたが、特に日本では話題を呼んできたようです。会合では、特に日本が精神科医療やメンタルヘルスケアについて恵まれていないからでは、という話になりました。ほかにポーランドでも、やはり非常に人気があるそうです。
いろいろな場所で試みられたものの、どこにおいてもトルネオでのように、高い成功率を誇るような結果にはなっていないそうです。これはどうしてなのか? という仮説ですが、究極精神的・心理的な治療も社会や文化から完全に切り離されたものではないので、なにかフィンランドやラップランドに、プラスに作用するような要素があるのでは? というのが私が真っ先に考えた仮説です。(事実精神的な病や心理的障害の分布も、国や文化によって違います。)
また、ダニエルさんはオープンダイアローグがうまく行くには治療者たちが主体的なパワーを持ち、ボトムアップで治療環境を構築しなければいけない、と言っていましたが、多くの施設や環境(施設、病院、学校、職場等)ではそれがなかなか難しいことです。この条件はオープンマインドのような、個人でやっている心理療法のサービスでも同様で、なるべく独立を保ち干渉されない形で、環境を構築できないと効力を発揮するのは難しいのです。(そのために個人開業という形は理想的であると言えます。)究極には、やはり話をしていく中でその人(患者さん、クライアント)に合ったアプローチを模索し、ともに築き上げていくということが一番効果的であると、経験から言えるように思います。
どうしてオープンダイアローグが話題を呼んでいるのか? については、会合でも話に出ましたが、それまで精神病やその治療、薬について「オープンに」話し合えるような場がなかった、ということも挙げられそうです。つまりはタブーだったということでしょう。それまで疑問に思ってきたことや、思い悩んできたことが噴出したと言ってもいいかもしれません。
実際には治療の場というのはオープンに、気になることや疑問点も話題にしていいところであり、そうあるべきです。が、1回15分(か、それ以下)の診療ではとても無理、と言えるかと思います。(心理療法は、通常45分、50分、60分などのフォーマットで行われるのは、十分対話をしていくためであり、それも通常1回きりということはなく、多く繰り返されるものです。)
会合で、私もコメントの機会をいただきましたが、そのときは関係精神分析のことが頭に浮かびました(後述)。実は、精神分析=フロイト、のように思っている人が相当多いのですが、精神分析にはその他の学派や多くの理論家がいます。実際、分析家として独り立ちするようであれば、その人はみなその人なりの「理論」や、少なくとも「やり方」を打ち立てているはずなのです。ごく当たり前に人は一人一人違うからです。しかしそれは、融通の利かない理論や方程式のようなものを患者(クライアント)に当てはめる、といったものではなく、むしろこういった状況にはこう対応するのような「ノウハウ」や経験知が数多く集まったものであると言えます。もしかしたら数百、数千くらいあるかもしれません。セラピストはこの多くの「引き出し」から、そのとき一番効果的であると思われるものを持ってきている、と言えるのではないかと思います。
そのような熟達したセラピストでも、誰とでもうまく「治療」を運べるといったことではなく、合わないときはあり(専門性やアプローチ、人柄、単に患者側の好みなどまで含む)、その場合は信頼できる同僚にリファー(紹介)するという手が取られますが、これを拒絶とかたらい回しと思う必要はないのです。
オープンダイアローグとの関連で言えば、精神分析でも「関係精神分析 relational psychoanalysis」というのが最近台頭し注目を浴びており、世界の先進的な場所ではそれが行われています。従来の精神分析におけるルールをいわば逸脱する形で(と言っても、好き勝手にやっていいというわけではなく、基本的な考え方の枠組みを知り、理解し、適切な場を作った上で)、分析家(セラピスト)がより人としてリアルに関わることで、治療が進んでいきます。しかしこれはもちろん患者を受け身にするということではなく、患者自身も積極的に参加する必要があり、いわば「両側から」の参加(エンゲージメント)があってはじめて成立するものです。心理療法は「共創」の場であると言っていいでしょう。
いわば治療者と患者の間によりフラットで、オープンな関係があるということで、こうした面でもやはり精神医療を取り囲む時代や文化が、以前とは変わってきているということが言えるのではないかと思います。
精神分析や、心理療法の場合多くは一対一(個人療法)で進められますが、一対一でのやり取りが苦手であるとか、どうしても苦痛であるとか、上手く行かないといった場合はあるでしょう。そうした場合、オープンダイアローグ的なアプローチであるとか、自助グループのようなものが向いているのかもしれません。一対一だとどうしてもその相手との葛藤や不満が高まってしまうため、それを抱え、乗り越えていけるということが必要になってしまうのです。
ただし、そもそもオープンダイアローグが一番うまく行ったのが、「ラップランド地方での、システム的家族療法のトレーニングを受けたセラピストが複数関与して、精神症状の最初のエピソードを経験している人とその家族へのアプローチ」であった、という限定であったということを、忘れるのはどうかなと思います。これはオープンダイアローグというアプローチが、精神病が発症しそうなまさにそのタイミングでの危機介入として、非常に効果があったという意味ではないかと思います。これはもっと軽い(神経症のような)ものでもそうで、たとえば不安が強いところからパニック発作を起こさないようにするとか、自殺念慮をあくまで「念慮」に留めるとかは(考えが浮かぶだけで行動には移さない)、効果的な介入により可能なわけです。
そうした意味で、オープンダイアローグを長期の精神病に応用できるだろうと思うのは、どうなのかなと思います。入院するのであれば、家族から離れるわけですしそれには分離に伴うストレスが伴い、精神病が出てくるような土壌では分離不安は強いだろうということが考えられます。分離がプラスに働く場合もあるでしょうが、それはやってみなければ分からない「賭け」ですし、また患者さんが家族の元に返ってくる場合でも、それなりのストレスが伴います。いったん向精神薬を使い始めれば、特に長期連用であればその弊害や副作用も出てきてしまいます。
精神病が治らないというわけではない、という希望を与えるものではありますが、治った、治したということはあまり知られていないだけで過去にもありました。(前述のフリーダ・フロム=ライヒマン等を含む。)現時点ではオープンダイアローグ自体はやはり危機介入の側面が強いのかな、と思いました。となるとまさにそのようなストレスを抱えている人・家族が危機の際、援助にアクセスできるというのが良い、ということになるのだと思います。