子ども・子育て・発達
2023年08月08日

「教育虐待」について

心理カウンセラーとして個人開業をして9年目、その前後に雇われとして、あるいは学校カウンセラーとしてカウンセリングを行ってきた身として、非常に気になっているものが「教育虐待」というものです。非常に広範なものを含み得ますが、文字通り勉強をさせるために虐待的な手段(身体的虐待、身体的罰)に出るものから、価値観として勉強や学習に役立つ(と思われる)ものしか容認しないといった、狭い価値観の押しつけ(と行動の規制)ことまであります。

ましてや近年は若年化が進んでおり、就学前でも「勉強」的なことを盛んにしていたり、都市圏では小学校受験があったり、中学受験のためにも長い年数をかけて塾などに通い準備することも珍しくありません。子どもの主体的な学びやこころの発達に欠かすことのできない、「遊び」の機会がどんどん失われているのです。遊びがなくはないにせよ、それは先々学校・アカデミックな場で成功するための手段と考えられてしまっており、自発的で意味のない(ように思われる)遊びや、友だちなどとの「無駄」な時間、無為やぼーっとした時間などに価値は置かれていません。遊びは不安をマスターするため、またクリエイティブになるためにも非常に大切な活動で、子どもほど遊びをうまくやることができる人はいません。今、多くの子どもたちは親や周囲の大人の心配や野心、達成感、また社会の経済的利益(要は金儲け)のために犠牲になってしまっているとも言えます。

正直、こうした「お勉強主体」の子ども時代の過ごし方はあるところまでは「学力」として表れるかもしれませんが、長い目で見ると伸びしろが少なく、メンタルヘルス的にもマイナスになるのではないかと懸念しています。緩むことや、さまざまな価値観、主体性や自主性などが大切だからです。学びにとって「内発的動機」、つまりは自分の内側から起こる好奇心や興味ほど無敵なものはないからです。こうした領域で、後の年齢になってからの心理療法は無力ではないものの、やはり子ども時代にできることは子ども時代にできるようにやっておく方が、人間の発達を考えても理に適っています。中には取り返すがつかないような(いわゆる後天的な「発達障害」に結びつくような)ものもあるのではないかと思われます。

大人になってからもそのような教育虐待的背景を引きずっている人も少なくありません。このような人の場合、仕事の悩みなどの理由でカウンセリングを訪れますが、話を聞いていくとやりたいことがよく分からなかったりします。いろいろ興味はあり、「勉強」もできるのですが、それが自分のアイデンティティのコアの部分につながっていないため、長続きしなかったり、目移りしやすかったりします。結果、つづかなかったり、転職を繰り返していたりといったことになり、長期的な成果を上げたり、帰属感を得たりするのが難しく、仕事や職業にも充実感がありません。勉強や教育を(好むと好まざると)優先してきたためか、人づき合いや人とのコミュニケーションを苦手としていたり、軽視していたりする場合も少なくないため、そちら方面から充実感を得ることも難しくなってしまいます。

こうなると、それなりの学歴や経歴はあるのに空虚感や無力感があり、場合によっては仕事をつづけていくことすら難しくなってしまいます。能力があるだけに、本人にとっても社会にとっても非常にもったいないように思いますが、やはり仕事や勉強以前に大切なものがある、ということかと思います。(それがまさしく心理療法が提供しているものかと思います。)

今の世の中には、グローバル化、IT化、AIの進化など、いろいろな懸念材料はありますが、そうした「外側の」プレッシャーに親や家庭が潰されることにより、その悪影響を子どもはダイレクトに受け得ます。親、大人としては、世の中の急激な変化に慌てるのも分かりますが、まずは抵抗したり知的な懐疑心を持ってみるべきかと思います。全般的な、人間や子どもへの信頼感、肯定感もとても大切です。親が多少スタンスを変えることで、子どもの精神的な生活がグッと楽になり、健康的な成長が再開される場合もよくあります。それだけ親の目線の威力は強いということでしょう。