人種・民族・多文化・異文化
2023年09月06日

震災など、自然災害と人種差別

9月1日は防災の日でしたね。関東大震災からちょうど100年とのことです。私も乾パンだけ、ちょっと買い足しましたが、もうちょっときっちり備蓄を見直さないといけないかな~と思っています。

最近、関東大震災の際に不安や混乱から朝鮮人の虐殺が起こったという問題が取り沙汰されており、たしかにあったという側と否定している政府や地方自治体側が対立しているようです。これはトラウマ(自然災害や虐殺などもトラウマと呼ばれ得ます)を巡ってはよくある話で、たとえばさまざまな場面での虐待なども、加害者や傍観者(起こっていることをある程度知っていて、止めることができる立場にあったかもしれないがなにもしなかった人)によって否定されることが多いです。というのも、多くの場合、「止める」ことによって自らの安全や世界観も崩されてしまうという「保身」があるからではないか、と思っています。

話がやや逸れましたが、その100年前の震災の際起こったという事件を題材にした映画が公開されているようです。『福田村事件』というもので、現在の千葉県のある村において、香川県から来た薬の行商人の一行を朝鮮人と間違え、女性子どもを含む数人を虐殺してしまった、という話だそうです。(本来、映画を観てから書くべきなんでしょうが、まだ観ていません。)

なぜこのようなことになるのか? 震災という、未曾有の事態のなかで大きな不安や混乱があり、また「被害を受けた(被災した)」という状況があり、そのやり場のない怒りや混乱をある対象(この場合、すでに流言庇護により悪さをしていると言われていた朝鮮人に対し)に向けることになった、と言えるかと思います。これは、防衛機制的には「受動から能動へ(passive into active)」と呼ばれるものと考えることができ、非常に大きな被害や「やられ感」で自分が潰れないために、「受ける(やられる)」から「やる」に転換する、というこころの動きに関わっていると考えることができます。(これはこうした「悪い」ことばかりではなく、それまで言葉を「聞く」一方だった幼い子どもが、言葉を「話す」ようになるのも能動への転換と考えることができるかと思いますし、ほかにもいろいろ例があるかと思います。)

2011年の東日本大震災の際にも、長期化する避難生活のなかで、女性や子ども、高齢者などに不利な状況が生じていたと聞いたことがあります。災害の際には、みんな自分のサバイバルや利害で手一杯になります。そのため、弱者や部外者と見なされる者(人種・民族が違う人など)は切り捨てていいというような考えや行動が、安易に出てきてしまう怖れがあります。

私たちの多くはおそらく、自分は人種差別とか人種主義とは無縁だと思って暮らしているのではないでしょうか。しかしその「無縁」というのは意識におけるもので、ジェンダー論などで言われる「アンコンシャス・バイアス」的なものは、人種や民族についても存在します。日本は、ほかの国(たとえばアメリカやオーストラリアなど)ほど声高には言われないものの、人種主義が存在する国だと思っています(ない国もないのかもしれませんが)。欧米など、白人がなんどなく優遇されているというのはありますし、黒人やマイナーな民族の人はあまりポジティブな意味で注目されていないようにも思えます。

防災への努力に加え、常日頃から人種・民族についても考え、話すことでこのような悲劇を繰り返さずに済むのではないかと思われます。