2018年08月22日

高校野球に見る「泣き」の社会性

夏、と言えば高校野球の季節ですね。
実を言うと野球は、子どもの頃はともかく最近はあまりフォローしていません。
ですがこの季節になると、高校野球についてはどうしても目に入ってきますね。
その死闘ぶりだったり、敗北して甲子園の土を持ち帰る様だったり・・・
そんな中でふと気になったのが高校球児の「泣き」(涙)のことだったのです。

高校野球のコンテクストでは、負けた際の泣き、悔し涙は正当化されており、
賞賛さえされていると言えるでしょう。テレビ画面やSNSなどでも、ほぼ「大の男」に近い
高校生が臆面もなく泣いている姿が映し出されています。
野球に限らずスポーツの世界では、負けて悔しいときに泣くことは恥ずかしいことではなく、
むしろいいこと、望ましいことだとされているようです。負けた悔しさをそうやって
こころに刻みつけておくことで、また頑張ろう、勝とうとするこころが湧いてくる、
ということのようです。

では、スポーツではなく、ほかの状況ではどうでしょうか?
「男性と涙」という組み合わせでは、男性(特に大人)が泣くのは、特別な場合、
とてもドラマティックな場合だと思わないでしょうか?
身近な男性が涙しているのを意外に思ったり、また自分が親だった場合、男の子に
「男なのに泣くな!」といったようなことを言った記憶はありませんか?

実はこれ、心理的にはかなり深いところに残ると思うのです。
メッセージとしては、自分にとって根本的であるジェンダー・性差(「男である」)と
「泣くこと」(涙、感情表出)が結びつけられてしまっています。
泣く理由はいろいろあると思いますが、泣くことは通常、「自然な感情の流れ」であり、
望ましいことです。特に子どもの場合、まだ言葉で十分に自分の状況や立場、
気持ちなどを説明できないこともあって、自然と泣くことが多くなります。
それを禁じるということは、最悪「感情を表してはいけない」さらには
「感情を感じてはいけない」というメッセージとして入ってしまう怖れすらあるのです。
流れない感情はメンタルの問題ばかりでなく、心身症を通じて身体の病気に発展していく
怖れすらあります。(これも、悪く行った場合ではありますが。)

このように、感情を表すことや感情表現(感情表出)は対人関係や社会と密接な関係が
あります。子どもにとってもっとも重要な関係である親との間で「泣くな」と
言われることは、対人関係全般に「応用」される可能性があります。とにかく人前では
泣かない、といったことです。
日本文化というところまで拡大すれば、あまり感情表現は大げさなものではなく、
がまんすることや耐え忍ぶことなどが奨励され、美化されている傾向はあります。
と同時に日本文化(日本語)は感情についてとても細やかでもあり、感情に関する
語彙もものすごく多いのです。

  奥山に もみじふみわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき

百人一首の有名な句で、秋を先取りですが(笑)、こうした昔の和歌など見ても、
日本人が以前から感情というものを、自然や対人関係の綾の中などに置いて表現してきた
ということが分かると思います。

対して欧米では、大げさなジェスチャーや表情などを伴って、感情はより強く、大胆に
表現されることが多いです。ダンスなど見ても、日本の能などは内攻しますが、
西洋のバレエは外へ外へと出していく動きをします。(同じ日本モノでも、もうちょっと
時代が下る歌舞伎は、もっと外向的・開放的な気がしますが。)しかし欧米と言っても一様ではなく、
宗教や信教などによって感情表現はいけないとされているという例も、聞いたことがあります。
葬式のときに大げさに、おおっぴらに泣いて人々の悲嘆を表現する「泣き女」のいる文化や
地方もあります。

話が日本や欧米文化の方へ逸れてしまいましたが・・・ある意味、同じように
社会性や文化によって、高校球児はおおっぴらに泣いて良い、ということになっている
と言えるでしょう。スポーツ全般もまた、そうした選手たちを見て観客もまた感情を共有し、
感動する場でもあります。

ひるがえってカウンセリング・心理療法もまた「泣いてよい」場所です。カウンセリングは
基本何を言ってもよい場であり、しかし通常誤解されているようにすべて「言葉」によって
起こっている場ではありません。そこにある身体やジェスチャー、表情、背後で動く感情なども
すべてカウンセリングの場に持ち込まれるものです。
「泣く」背後にある感情は悲しみ、怒り、やるせなさ、悔しさ、憤り、無力感、喪失感・・・
いろいろあるでしょうが、嬉し泣きもときにはあります。また、カタルシスと呼ばれますが、
長い間つながっていなかった感情とつながって流れ出したときにも、一般に涙は流れるように思います。
涙はいずれにせよ、内から外へ流れる自然なエネルギーのようなものだと思います。
そうした瞬間に立ち会えるのは、この仕事冥利だなぁと、とときどき思うのです。