2018年09月21日

カウンセリングについての誤解

カウンセリング(心理療法)というのは、とかく誤解を受けやすいな~、と思うことが
あります。
例えば、料理、スポーツのような目に見える、分かりやすいものでないことは確かですし、
こころや人間関係、コミュニケーションを扱うと言われても困ってしまうし不安にもなる
でしょう。

日本語では、どういうわけか「カウンセリングを受ける」という言い方をするのですが、
これがまた問題というか、表現自体すでに受け身であり、英語でのような「自分から助けを
探す(= seek help)といった能動性、ポジティブなイメージより、「受けて」、何か
してもらう、言ってもらう的なイメージが勝ってしまっています。

それは大変な誤解であり、受け身であるべきなのはカウンセラーの方です。私たちは聞き、
理解しようとし、理解したことを言葉にして伝えます。セッションの中では通常
クライエントさんの話す量の方が多いです。(あまり話の出てこない人や、生活レベルで
あまり機能できていないような人の場合は、こちらから働きかけますが。)

誤解が生じやすいのはまたよく知られていないせいもあります。上記のように「必要と
自覚して、助けを求める」ことはむしろほめられるべきことであり、決して恥じたり
隠れたりする必要のないことなのですが、一般にカウンセリングを受けていることを
公言する人はそういないでしょう(カウンセラー側は守秘義務で原則できません)。
残念ながらカウンセリングを受けていると言って、「良かったね!」と言ってもらえる
より、うさんくさそうな目で見られる確率の方が、高そうです。

実のところ、カウンセリングはとてもユニークな「経験」であり、経験知であるため、
たとえ本を読んでも類似の追体験はできたとしても、やはり実際にその場である程度経験
しないと分からない性質のものです。(これはカウンセリングを学んでいる人についても
言えます。)また、同じクライエントとカウンセラーの組み合わせは世界に一つしかありません
から、なおさらやってみないと分からないというところがあります。
そうしたバラエティがありながらも、一定の基準(あるべき質、ある程度了解された手法、
倫理など)内で動いているのがカウンセリングです。

倫理面での不適切さも世間の信用を失うきっかけとなるでしょう。守秘義務を無視して
公的なスペース(カフェなど)でカウンセリングをしている、という話も聞いたことが
ありますし、大学院時代の日本人の友だちは以前カウンセラーにハグされたと言っていました。
そうした、助ける関係と個人的な(最悪の場合、性的な)関係の混同は言語道断であり、
カウンセラー側の訓練不足や未熟によるものです。
カウンセリングではどうしても性、恋愛などのセンシティブな話題にもなりますから、
なおさらカウンセラーの訓練や力量が問われるところなのです。カウンセラーにとって
教育分析や個人分析、スーパービジョンなどが大切なのも、治療関係という人間関係の
ダイナミズムの中で思わず現れるこうした「盲点」を作らないためなのです。
別の言い方をすれば、「いかに効果的に目の前の人を助けられるか?」でなく、自分の
無意識な動機(自分が助けを必要としている、等)で治療をしている状態はまずいのです。

精神科などで、治るものを必要以上に治療につなげている状態も、倫理的でないと言えます。
そもそもなにかのちょっとしたきっかけで軽いうつになったような人が、ずっと薬を摂って
いなければならないとは思いません。社会や家族の構造もあるにしても精神病の人などが
ずっと入院生活を送っていなければならず、回復の機会も与えられないというのはやはり
解しがたいことです。

別のシナリオでは、元々疑い深かったり、人に不信感を持っていたり、人の動機を曲解する
ような人の場合、カウンセラーの意図や動機を悪意に取って「悪い人」と判断する場合も
あります。

いずれにせよそうしたカウンセリングに関する誤解や伝説を解くべく、こうして情報発信を
しているという面もあるのですが、これもまた言葉にして書いただけで対面で誤解を解いて
いくようなプロセスとは、別物であると言えるでしょう。とは言いながら、やはり日米を
比べたときに、アメリカでの方がはるかに一般の人に入手できる専門的な情報も多いことを
考えれば、日本ではまだ専門家が不当に情報を抱えこんでいる側面も、あるのかもしれません。
オープンにしていくことに限界はあるとは言え、やはり可能な限り正確な情報を伝えることも、
必要と思われるのです。

話は逸れますが日本の精神史を振り返ると、たとえば仏教の知識等は「秘伝」「奥義」などと
されていることが多く、一般の人は知らずに単に信じていればいい、のような傾向が大きかった
と言います。それに対して西洋からもたらされたキリスト教は、言葉で説明がなされることが
庶民にアピールしたと言います(司馬遼太郎の受け売りです)。
なんだかこれとカウンセリングの状況が似ているように思えるのですが・・・(心理的治療と、
宗教を同列で考えているわけではありません、念のため)。心理的な悩みや障害を抱えている
ときに、「知らなくていいから、信じなさい!」と言えるでしょうか? むしろ積極的に
学んでほしいと思います。

親や上司、世間に対してするように、カウンセラーやカウンセリングにもそれぞれの人の
思い込みや投影があります。結局のところ、それがあまりない人や、それを超えて来る人が
カウンセリングに来るのかな~、とも思うのです。無責任なようですが、カウンセリング・
ルームでのカウンセリングは基本来ていただくしかない、というのがあるからなのです。