2018年12月26日

学校ってなんだろう

多くの人にとって、「学校」というのはあたり前の存在で、あまり深く考えた
ことはないかもしれません。
私もそうでした。しかし、スクール・カウンセラーの仕事を通じて学校を「内側」
から見るようになって、学校や学習について考えるようになりました。
ご存じのように、世界には学校に通いたくても通えない子どもたちが多くいます。
そういう意味で、学校が「あたり前」と思えるのは、とても贅沢なことでもある
のです。

例外もありますが、学校の授業はふつう屋内で行われます。机とイスの間に
座って、読んだり書いたりしなければなりません。「先生」がいて、おそらく
ある程度の人数の同じ年頃の子どもたちがいて、時間割や決められた物事の
順序があって、という風に成り立っていると思います。

こうした「ハコ」、「机とイス」、「本やノートと鉛筆」、「時間割」などに
なじまない子もいます。近年増加している「発達障害」(または、「それっぽい」
子)は、そうしたなじまない子を指して使われているようにも思えます。

メンタルヘルスという観点から言えば、たしかに思春期後期~青年期にメンタル
や行動の問題を示す人は、すでにそれ以前の学校生活で、なんらかの「問題」
を指摘されてきている可能性が高い、という関連も一応あります。

と同時に、いわゆる学校で習う字や読み方、数字の数え方や操作の仕方などは、
人間が生まれながらに持っている能力ではありません。学校や学校教育が必要と
されている社会で、システマティックに伝授され、その社会で有用とされる
人材を作りだそうというものなのです。「リテラシー」(読み書きの能力)は
学校で習得される典型的な技術の一つです。

いわゆる「未開の」(と言って良ければ・・・人類学者が研究の対象とする
ような)社会では、読み書きなどもなく、数字をある数以上数えるようなことも
ありません。必要がないからでしょう。その代わり、もし狩猟や採集などに
頼って生きているとしたら、そうした情報-動物や植物、土地や地理のこと
など-は、学ばなければなりません。それを知らなければ、生きていくことが
できず、大変なことになってしまいます。

アメブロの方で「進路の選択で性格に違いが出る?」という記事を書きましたが、
https://ameblo.jp/openmind-psychology/entry-12426947752.html
職人になりたい人、スポーツ選手になりたい人、ビジネスマンになりたい人、
学者になりたい人・・・それぞれに「何をどこまで学ぶか?」は違ってくる
はずです。
同様に、「どこで生きるか?」、つまり社会やコミュニティによっても、「何を
どこまで学ぶか?」は違うでしょう。

冒頭の「学校になじむ・なじまない」の話まで戻ると、学校になじむには、言葉の
カベもあると伊藤(2018)は指摘しています。言葉のカベと言っても日本語なの
ですが、ふだん家庭で話していて身につくような言葉と違う言葉が学校では使われ、
それらは「学習言語」と呼ばれます。たとえば「理解」、「内容」などは学校で
よく使われる言葉でありながら、習う言葉でありながら、いったいどういう意味
なのか説明されないまま使われている言葉の例だと言います。

また、授業中の先生と生徒の会話には一定のパターンがあり、通常「呼びかけ-
返答-評価」の連鎖でできあがっています。このパターンに難なく入っていける子
もいれば、逸脱しやすい子もいます。こうした「学習のやり取り」から逸脱しやすい
子は「ふざけている」と見なされ、先生は学習のパターンに引き戻そうとします。
しかし、ふさけている子が隣の子と関係ないことを話していたとしても、その子
たちは「学校」という場でのコミュニケーションをしていることには変わりない
のです。

厳しくまじめな先生であればあるほど、こうした「ふざけ」を容認せず、矯正しよう
とするのではないでしょうか。しかし、当の子どもにとってはそれが「学校にいる
状態」であるとすれば、生徒の「好ましからざる」行動を摘み取ることで最悪その
子の居場所まで奪ってしまいかねない、というのがあるのではないかと思います。

このように、「あたり前」と思っている学校で起こっていることはあたり前に
見えるほどにはあたり前ではなく、細かく見ていくといろいろな困難を伴う可能性
もあるのです。学習言語や学習のコミュニケーションの問題のほかにも、先生や
友だちに心ないことを言われたといったことが、学びや通学の障害となってしまう
子もいます。

育児も含め、今こそもっと細やかな子どもへの対応が必要とされているのかも
しれません。毎日は「同じ」ではなく、一日一日がユニークなのです。そこで
遭遇するさまざまのウキウキすること、がっかりすること、残念なこと、頭に来る
ことなどが、子どもの豊かな「一日」を形成しています。これを、ただ放って
おくのと、親子や先生-生徒間、友だち同士などである程度共有するのとでは、
先々ずいぶん違ってくるのではないでしょうか。

参考文献:
伊藤崇『子どもの発達とことば』(2018年 ひつじ書房・刊)